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第五話 魂の距離

مؤلف: 本島幸久
last update تاريخ النشر: 2026-01-08 22:41:57

夜空に浮かんだ満月が白く輝く。

私は丘の上の道路で愛車のレブル250を停め、その月を見上げた。

五月の満月は北半球では〈フラワームーン〉と呼ばれているそうだ。花咲く季節の月──実際少し前まで寒さ凌ぎにちょうど良かったレザーのライダースーツも、今は下だけ履いて上は黒いハイネックニットで済ませている。ヘルメットもフルフェイスではなく半キャップ型の黒いダックテールだ。

ふと風が吹いて、背中に伸びた髪を揺らす。

(気持ちいい……)

お母様は私がバイクに乗る事にずっと反対していた。私は決してスピード狂ではなくのんびりと風に吹かれたいだけ、お嬢様育ちのささやかな背伸びなのだと散々説明したのだが……

─貴女は子供の頃からおっちょこちょいですからねえ。ホラ、オモチャもすぐ壊しちゃって…。

そう言ってクスクス笑うお母様にとって、私はいつまでも積み木やぬいぐるみで遊ぶ小さな女の子のままなのだろう。しかし今乗っているレブル250は車体が黒で統一されていて、そのシンプルでヴィンテージライクなデザインが気に入っている。決して可愛らしいオモチャではない。お母様はそこにも口を出してきたが……

まりさんにはもっとお洒落なデザインが似合うのではなくて…?

(いいえ、お母様…)

私はちょっとだけ笑って、アクセルを捻りクラッチレバーを離した。目の前に十字路があったが、まだスピードが上がっていないのでそのまま右折する。時刻は午後十時を過ぎて辺りに車の気配も無く、私は油断していた。

曲がった先に、人が立っていた。

(あっ……)

一瞬確認できたのは、相手が私と同年代の若い女性である事…その胸に両手で抱きかかえている白いドレスの人形……私は避けようとしてハンドルを切るが、バランスを崩す。ぶつかったかどうかもよく分からなかったが、人形の女性は道路に倒れ、レブル250も横滑りして、私はシートから放り出された。ダックテールが吹き飛んで、私は直接アスファルトに頭を打ち付けながら転がり、仰向けに止まった。

─…確かにおっちょこちょいなのかな……

最後に見たのは、真っ白なフラワームーン──

麗青学苑大学敷地内の奥にある通称〈文連ハウス〉には、文化部の部室が集まっている。僕─間嶋久作がキャンパスを駆け抜けてその入口前に辿り着いた時、慣れない全力疾走に脆弱な心肺機能は悲鳴を上げていた。五月にしては肌寒い曇り空だが全身の汗が止まらない。僕はしかしゼェハァ言う息を整えるのももどかしく、これも慣れない大声で叫んだ。

「だっ、誰かっ…人形に詳しいオタクの方はいませんかあっ?

人形の命が懸かっているんです!」

幾つかの部室の窓が開いて数人の学生達が顔を出す。時刻は間もなく正午─放課後に比べると人は少ないが、講義の間の時間潰しで部室に籠もる学生はそれなりにいるのだ。しかしどの学生も男女問わず、一様に怪訝な顔をしている。僕だって変な事を言っているのは分かっているが、仕方無い。緊急事態なのだ。

「お願いですっ…誰かっ…自分で人形を造ったり直せたりする方がいたらっ……!」

結月沙苗の入院する世田谷さくら総合病院に独り潜入したどーるが、一夜明けたら無惨な姿で病院の駐車場の隅に倒れていた。右腕は千切れ、左脚も曲がり、体も服もボロボロになって…。一体何があったのか分からない。気を失ってしまったどーるからは、まだ何も事情を聞けていないのだ。

僕は着ていたシャツでどーるをくるんで抱え、病院のある駅から一駅先の麗青学苑前駅に行き、そこから近い楠本真名の下宿に大慌てで向かった。昼休みに大学で会う予定だった真名は最初驚いたが、傷だらけのどーるを見るとむしろ冷静になって、テキパキとどーるの服を脱がせて体を拭いてくれた─僕は『見ちゃダメ』と言われて背中を向けていたが…。

そのどーるを看た真名が『これは素人では手に負えない』と辛そうに呟いたのを聞いて、僕はこの文連ハウスに走ってきたのだ。確証があった訳ではない。ただここには漫画研究会やミステリ研究会、SF研究会にあの希津水破一郎先輩が所属する映画研究会等、専門家オタクがいそうな濃い団体が乱立している。フィギュアやドールに造詣が深い人が紛れている可能性は充分にある──

「お、俺、フィギュア造るけど…?」

そう言って二階の窓から右手を挙げる男子学生がいた。上背があり小太り気味だがガッシリとした体格で、カーキ色のTシャツの袖から伸びる右腕は逞しい。丸顔で黒いボサボサの髪と顎髭が繋がっていて、眉毛も太いが決して強面ではなく、目は小さく優しげで黒縁眼鏡を掛けている。例えるなら『熊のお医者さん』といった風情だろうか。

「ホントですか!そ、その人形造る道具とか、どこにありますっ?」

「えっと…簡単な物ならここに…」

前のめりで尋ねる僕の勢いに気圧されつつ、その学生は部室の中を指差す。僕は藁にもすがる思いで頭を下げた。

「お願いします!一緒に来てくれませんか?あのコを助けてくださいっ!」

あまりに意味不明過ぎるお願いだったが、その『熊のお医者さん』は曖昧に笑いながらも頷いてくれた。善い人だ。とにかく一緒に真名の下宿に行ってくれる事になったその人は大和田さんと言い、法学部の三年生だそうだ。文連ハウスから出てきた大和田先輩は下はジーンズだが白いジャケットを羽織り、手には茶色いボストンバッグを提げて、本当に往診に向かう医師の様である。この人ならきっとどーるを助けてくれる──

「それで大和田先輩はフィギュア同好会か何かでっ?」

「いや、居酒屋探訪倶楽部だけど」

「あ…そうなんだ……」

「うーん…これは酷い……」

大和田先輩の暗い声に、僕と真名は膝の上の拳を握りしめる。真名の下宿の六畳間で僕達三人はピンクの小さな丸テーブルを囲んでいた。

文連ハウスから早足で歩く事約二十分、セレブが住む丘の上から離れた駅の南側のこの辺りは古い家が多く、真名の遠戚が紹介してくれたというこの二階建ての日本家屋も築五十年を超えていた。そこに住む老夫婦が遠方に嫁いだ娘の部屋に真名を下宿させてくれているのだが、畳敷きで入口も押入れも襖、窓も木枠の格子窓の渋い和室だ。畳の上に白い絨毯カーペットが敷かれ窓には淡いラベンダーのカーテンが掛けてあるのが、何とか女子の部屋っぽい。

そんな部屋の中央のテーブルに向かって胡座をかいている大和田先輩は、腕を組んで難しい顔をしている。彼が見下ろすテーブル上ではどーるが目を閉じて横たわっていた。服は真名が脱がせて脇に置いてあり、裸の胴体には白いタオルが掛けられている。これも僕に見せない為らしい…何故?

「右腕も左脚も可哀想に…一体どうしてこんな事に?」

大和田先輩の問いに僕と真名は顔を見合わせるしかない。スッとこちらに視線を向けた先輩の目には、僅かに怒りが滲んでいる。僕達がどーるを壊したのではと疑っているのだろう。フィギュアを自作する彼にとって、人形をこんな風に乱暴に扱う人間は到底許せないに違いない。

「こ、細かい事情は僕達にも分からないんですが…あの、直せますか…?」

「君にとってこの人形は大切かい?」

大和田先輩のキッパリとした口調に、怯んでいた僕はハッとした。どーるの顔を改めて見る。

クルクルとよく変わる表情を思い出す。可愛い顔をしているくせに生意気で、お腹が空くとすぐ不機嫌になり、でも僕が落ち込んでいればニッコリと励ましてくれて……

『…またあんたが…あたしを見付けて…くれた……』

「…ハイ、とても大切なコです」

「──分かった」

しっかり目を見て答えた僕に大和田先輩はひとつ頷いて、脇に置いてあったバッグから様々な道具を取り出し始めた。

「幸い千切れた右腕は関節部分で綺麗に外れていて、部品が欠けてる訳じゃない。この球体になってる関節のそれぞれに細長い穴が開いてるだろ?この穴にゴム紐を通して関節同士を繋げるから動く訳だ。そうやって繋げた体のパーツは空洞の体内で吊るす様に固定する。例えば両腕は肩を通して吊るし、両足は股関節を通して吊るす。このコの右腕が取れたのはその吊るすゴム紐が切れたからだよ。それで右腕は関節から外れ、左腕はゴム紐が中で絡まってかろうじてくっついている。だから腕に関してはゴム紐を新しく入れ直してやればいい。

曲がった左脚の方が厄介で、こっちは関節ではなく本来曲がらないふくらはぎの所で捻れている。これはこの部分のパーツを作り直した方が早そうだが…うん、エポキシレジンでいけるかな…。全身の細かい傷はUVレジンで埋めて、磨いて着色すれば……」

ブツブツと修理の青写真を呟く先輩に、真名が遠慮がちに言う。

「ドレスは私が直していいですか…?一応演劇部でも衣装作ってるので…」

「ああ、お願いするよ。俺のはフィギュアだから、服も造型でやっちゃうんだ。裁縫とか出来ないし──」

真名が薄いピンクのレギンスの上にダブッとした白いワンピースシャツを着ているのもあって、二人はまるで患者の治療計画を確認し合う医師と看護師ナースの様だ。

「ぼ、僕にも何かやれる事があればっ……」

「駄目ですよ。久作さんにはどーるちゃんの体、勝手に見せたら怒られちゃうんですから…」

だから何故─?そう悩む僕が納得できないまま真名に部屋を追い出されようとしている時、背後から大和田先輩が呼び止めた。

「ああ、久作君だっけ?ひとつ訊いてもいいかな?」

「ハ、ハイ、何です?」

「このコは、········?」

真名の下宿を出た僕は、ひとつ息を吐いて道路脇のガードレールに腰掛けた。

出際の大和田先輩の質問を思い出す。咄嗟に答えられず『預かり物なので』と曖昧に誤魔化したが、よくよく考えれば確かにどーるは不思議な人形だ。見た目はノーブルな西洋人形の様でドレスもクラシカルだが、小顔でプロポーションも現代的、その素材からも最近造られたモノだと思われる。

大和田先輩の目利きでは人形としての完成度はなかなかのモノだが、名のある作家の作品ではなさそうだと言う。造ったのは駆け出しのプロか経験のあるアマチュアか─しかし全身の関節の数の多さと可動域の広さは、市販の子供のオモチャや着せ替え人形のレベルを遥かに超えているらしい。まるで意識が芽生えて自由に動き回るのを想定していたかの様な──

「さすがにそれは無いか…」

僕は独りごちて苦笑するが、すぐに真顔に戻る。どーるが何の為の人形なのかは確かに気になるが、今はそれより彼女が無事に元通りになるかどうかだ。と言っても体の傷に関しては、大和田先輩の修理の腕を信じていい気がしている。だから問題はそこではない。さっき目を閉じて動かないどーるを見ているうちに、気が付いてしまったのだ。

もう彼女はただの人形になってしまったのではないか…?

普通の人間なら死んでいるのか気を失っているだけなのか、脈や呼吸を確認すれば分かる。しかしどーるの場合、脈も心臓の鼓動も元々無いし、お腹が空くくせに酸素や水分を補給している様子は無い常識外れの存在なのだ。僕は胸が締め付けられる思いで呟いた。

「どーる…戻ってきてくれるのか……?」

俯く僕の足元に、ペットボトルの赤いフタが転がっていた。顔を上げて振り向くと右横に飲み物の自動販売機がある。落ち着く為に何か……

「私はこの〈エクストラブレンド珈琲〉でいいぞ!」

そう言って自販機の前でニカッと嗤ったのは、全身黒装束でシャツのボタンだけ赤い長身のチェシャ猫─希津水破一郎先輩である。

「わっ、どうしてここにいるんです?」

「馬鹿者、昼休みに麗青みどり公園に集まる予定だったではないか。それが見当たらないし、貴様が文連ハウスから居酒屋探訪倶楽部の部員を連れ出して駅方面に向かったとの目撃証言も得てだな、ならば以前どーる嬢を預けた時に住所を聞いていた真名嬢の下宿に向かったのではと推測して来たのだ。

人形を直せないかと泣いていたそうだが、さてはどーる嬢が壊れたのだな。それで元通りになるか心配しているのだろう?」

流石─とは褒めたくないし泣いてもいないのだが、やはり破一郎先輩は一を聞いて十を知る。僕はどーるを発見した時の状況と傷の状態をざっと説明した。

「なるほど…何があったかは本人の口から聞かないと分からんな…」

「ハイ…先輩はどう思います?傷が治ったら、どーるはまた目を開けてくれるんでしょうか…?」

「そうだな…」

先輩は目を閉じて考え、やがて眉根を寄せて言った。

「とりあえずエクストラブレンド……」

「分かりましたよっ!」

僕が渋々自販機の前に立って見ると、エクストラブレンド珈琲の缶コーヒーは値段が一番高い。ふざけてる…ストレスメーターが上がるのを我慢しつつ買ったコーヒーを渡すと、先輩はグビッとひと口飲んで語り出した。

「んむ、美味い…以前にも検討したが、どーる嬢にはただ持ち主の念が込もっただけの生き人形とは到底思えない、······の生命力がある。そして本人が人形として覚醒する直前まで普通に生きていた実感があると言っている以上、導き出される最も有力な仮説は──

彼女は『人形に霊が乗り移った人間』という事だ」

先輩の言葉に僕は唇を噛む。僕もどーる本人もずっと避け続け、同時に心の奥底で囚われ続けていた推測を、先輩が遂に口にした。僕は言いたくない言葉を絞り出す。

「つまり…人間のどーるはもう死んでるって事ですね……」

「んぐ…それはどうかな」

「は?」

コーヒーを飲みながら軽く返す先輩に僕はポカンと口を開ける。

「どうかなって…死ななきゃ霊になれないでしょ?」

「これだから三文小説家予備軍は困るなあ…私がいつ〈··〉と言った?〈霊〉とは古来〈魂〉を指す言葉、死者の魂以外にも『肉体に縛られない存在』という意味での霊は数多あまたいるのだよ。〈神霊〉〈精霊〉〈自然霊〉に〈山霊〉…そんな霊達が属している世界が〈霊界〉だ。

〈シャーマン〉─術師や祈祷師とも呼ばれる者達の能力によって成立する宗教及び宗教現象を指す〈シャーマニズム〉において、霊界は物質界の上位に位置し多大な影響を与えていると言う。そのシャーマン達はトランス状態─意識と無意識の間の状態に入って自らの潜在能力を解放し、霊界の超自然的存在と交信する。そこで得た物質界で役立つお得情報を〈お告げ〉として信者達に伝える訳だな。そうやって病気を治したり、占いをしたり、時には予言めいた事も言ったり……

面白いのはそんな宗教的職能者であるシャーマンの作法に二種類あってね。〈脱魂型〉と〈憑依型〉なんだが、これがある意味真逆のやり方なんだ。

〈脱魂〉はトランス状態で自らの魂を解き放ち、霊界に飛ぶ。そこで様々な霊とコンタクトし、色々な体験をして知識を得て、それを現実世界に持ち帰って活用するんだ。シャーマニズムの概念を広く知らしめたルーマニアの宗教学者ミルチャ・エリアーデによると、伝統的なシャーマンはこの脱魂型がほとんどだったらしい。

一方〈憑依〉はトランス状態に入っても自らは動かず、霊の声を聴いたり、逆に霊を自分の肉体に乗り移らせて喋らせたりする。所謂〈降霊術〉だな。日本ではむしろこちらのやり方の方が馴染みがあるんじゃないか?テレビでも見かける霊媒師とか、恐山のイタコとか…。

そうだな、脱魂がアウトドアなシャーマンで、憑依がインドアなシャーマンって覚えれば──」

「ま、待ってくださいっ!」

先輩の魂トークにトランス状態になりかけていた僕は、必死の思いで正気を取り戻した。

「何の話をしてるんですかっ?僕が訊きたいのはどーるの事でっ……」

「だからどーる嬢の話をしているのだが?」

「どこがっ?」

「聞いていなかったのか?

シャーマンは脱魂して、·····魂を飛ばせると言ったろう?

生きている人間が他人に取り憑いたり心霊写真に写ったりする〈いきりょう〉や、寝ている間に意識が体を抜け出して飛び回る〈幽体離脱〉だってあるじゃないか。

人形に魂を移したどーる嬢の··が生きている可能性は、充分あると思うがねえ……」

僕は呆然と先輩を見返す。生霊?どーるの本体が生きている…?もしもそれが本当なら──希望の光が差した様な気持ちになっていた僕に、コーヒーをグビグビと飲み干した破一郎先輩は満足げに続けた。

「ぷはぁ〜…そうやって誰かの魂が乗り移れたのは、どーる嬢が良く出来た〈ヒトガタ〉だったからだろうな。

日本のアニミズム信仰では森羅万象あらゆるモノに霊が宿ると考えられてきたが、その現象を意図的に起こしたい時、霊が入るうつわとして使われるのが〈かたしろ〉だ。木や石を材料に目当ての霊が依り憑きやすい形に造るのがポイントで、〈動物霊〉を宿らせたいなら犬や猫の形に、〈水子霊〉なら赤ん坊に似せて造る。

そして神霊や祖先の霊を依り憑かせたければ当然人間を模して造る訳で、縄文時代の〈土偶〉、弥生時代の〈人面土器〉、古墳時代の〈人物埴輪〉等、全て人間型の形代─ヒトガタだ。身近なところでは雛人形もそんなヒトガタの一種だったのだが、元々は自分の名前を書いたり体を撫でたりして己のけがれを人形になすり付け、海や川に流して災いを除くのが目的だった。他のヒトガタもほとんどがそんな〈身代わり信仰〉から生まれたモノなんだが、まあそれは置いといて──

どーる嬢の意識が失くなったのは、腕や脚が壊れたせいでヒトガタとしての完成度が落ち、魂が抜け出たからかもしれん。その魂がそのまま元の人間の体に戻れればいいが、人間本体がホントに生きてるかどうか分からない現段階では、器としての人形から迂闊に離れない方がいい。下手したら行き場を無くして、魂が消滅してしまうかもな。

とりあえずどーる嬢をなるべく綺麗に直してもらってヒトガタに復帰させ、魂を呼び戻した方がいいぞ♪」

「あれ、何やってるんです…?」

下宿先の玄関から出て来た真名が、自販機の横で立ち尽くす僕達に目を丸くする。すっかり青褪めた僕をよそに破一郎先輩が陽気に応えた。

「やあやあ真名嬢。ネガティブな間嶋久作が本領を発揮して、悪い想像に支配されているところだ!」

誰のせいだ─僕が抗議する前に真名が困った様に言う。

「あ…破一郎先輩、いらしてたんですね…。何だかよく分からないけど…私、皆さんのお昼ご飯買ってきます。大和田先輩もお腹空いてるって…」

「じ、じゃあ、僕がおごります!」

突然復活した僕に真名が驚く。

「任せてください、高価たかい弁当でも買います!それで大和田先輩に頑張ってもらって、どーるを完璧に直してもらわなきゃっ…じゃないとっ…!」

早口でまくし立てる僕を、真名は何故か途中から微笑んで見つめていた。先輩も嬉しそうに言う。

「鰻重がいいな、ATM・間嶋久作!」

先輩の言い草には顔をしかめつつ、僕は本気だった。どーるの魂を消滅などさせてたまるか。出来る限りの事をしてあのコを取り戻す。そして元の体に返してあげるのだ。ネガティブでもATMでも何でもいい、僕が役に立てるなら──

その時、沙苗の顔が頭に浮かぶ。

今朝慌てて病院を飛び出した僕は、沙苗の病室には行っていない。

(そうだ…彼女なら昨夜何があったか知ってるかも……)

昨日一緒に病院の庭を散歩した事を思い出す。

─風が気持ちいいね……

髪を揺らして笑う沙苗は優しい目をしていた。どーるのうなじに刻まれた『To Sana』の文字─沙苗は『知らない』と言ったが、何か事情があるのかもしれない。だが彼女ならきっと僕達の味方になってくれる。もう一度沙苗とちゃんと話そう。ずっとトモダチになりたかったのに、入学以来出せなかった勇気を今こそ出して……

僕は沙苗にメールを送った。

三日後─金曜日の夕暮れ時。

「あ、久作クン!ホントに来てくれたんだ!」

世田谷さくら総合病院の正面玄関を出て来た沙苗は、僕に向かって笑顔で右手を振った。両腕の脇の下からアルミ製の松葉杖を突いているが、右足の包帯は外れて普通に白いスニーカーを履いている。着ているのも入院着ではなく、細身の青いデニムの上に袖や裾がフワッと広がった白い長袖のブラウスを重ねていた。

彼女は今日、二週間以上入院していたこの病院を晴れて退院する。僕はそのお迎えに来たのである。

澄んだ空の地平近くまで傾いた西陽が僕の背中から差して、金色の光に照らされた沙苗の髪はキラキラと輝いていた。

僕はそんな彼女にゆっくりと近付いていく。黒いジーンズの上にはカーキ色のフライトジャケットを着込んでいるが、そのMAー1というジャケットは借り物なのでだいぶサイズが大きい。逆光になる沙苗には、膨らんだ上半身が逞しいシルエットに見えたかもしれない。

「どうしたの?今日は雰囲気違うね」

「いや、あの…気分転換って言うか…変かな…?」

目の前まで来た僕の顔を小首を傾げて見上げる彼女に、ドキドキしながら曖昧に応える。沙苗はパッツン前髪の下の目を二度ほど瞬かせて、小さく笑った。

「フフ…ちょっとカッコいいかも」

僕の心拍数は超速で上がる。セレブな〈麗青の御令嬢〉と比べると化粧っ気の無い沙苗だが、打ち解けてから見せるようになった笑顔は何とも魅力的だ。僕同様に入学以来居場所が見付けられずに俯いていた彼女が、前を向いて笑ってくれている──

三日前『話があるのでお見舞いに行きたい』と送ったメールに、沙苗は『もうすぐ退院だからその時にゆっくり』と返信してきた。退院直前はバタバタして忙しいだけかもしれない。しかし彼女が僕とあえてゆっくり話したがっているとも捉えられる内容に、すっかり舞い上がって迎えに行く約束をしたのだ。

─トモダチになれたんだよね…?

「それじゃすぐタクシーが来ますから」

見送りに出てくれていた医師はそう言って頭を下げ、一緒にいた看護師と共に院内に戻っていった。僕は沙苗と並んで玄関先に立つが、ふと目線を落とすと足元にはベージュのトートバッグが置いてある。あの転落事件の際に持っていたモノだ。そのまま救急車で運ばれて入院したのだから持っていて当然だが、彼女の服装の方はあの日とは違う。

「今着てる服、誰の…あ、いや……」

喋り出してから女の子の服装をとやかく言うのはどうなのかと気付く。破一郎先輩がいたらまた『流石童貞!』と責め苦を負う場面だが、沙苗は特に気にしていない様だ。

「看護師さんから借りたの。転落した時の服は破れてたしもう着たくないから…アパートの大家さんに今日退院するって電話で伝えたら、私の部屋から服持って迎えに来ようかって言ってくれたけど……」

沙苗はそこで僕を見て、意味ありげに笑う。

(二人きりがいいって事…?)

心臓が跳ね上がるのを自覚しながらも、僕は考える。沙苗がこの春新潟から上京して独り暮らしなのは知っていた。地元の友達もおらず、大学で孤立している彼女の見舞いに僕以外の学友が見当たらなかったのは仕方が無い。しかし当初は意識不明の大事おおごとで入院していたのだ、その退院の出迎えが僕だけとは──

「結月さん、家族は…?」

「うん…まあ、色々あって…」

悩ましげな表情で目を逸らす女子にそれ以上質問する事は、非モテコミュ障の僕には到底出来ない。二人共しばらく黙っていたが、やがて彼女が先に口を開いた。

「久作クン、私に話があるってメールしてきたよね?何…?」

「ああ、いや……」

沙苗は口ごもる僕の顔をジッと見つめてくる。ちょうど正門から入ってくるタクシーを視界の隅に捉えた僕は、意を決して告げた。

「…ちょっと付き合って欲しい所があるんだ…」

サワサワサワ……

「ウフフ…」

僅かに吹いた風が木々を揺らす。葉擦れの音と共に漂ってきた草の香を、沙苗は目を閉じて気持ち良さそうに吸い込んだ。薫風はそんな彼女の髪を撫でて過ぎていく──

夕暮れの麗青みどり公園は人気ひとけが無く、シンと静まり返っていた。時刻は間もなく午後六時─五月のこの時期は日没までまだ三十分以上あるのだが、遊具で遊んでいた近所の子供達は午後五時のチャイムを聴いて家路に就いたのだろう。僕が病院に着く頃には既に、辺りには『ウエストミンスターの鐘』が鳴り響いていた。一方、もっと上の学生や社会人が帰宅する時間にはまだ早く、主婦ならば夕飯の支度で忙しい─そんな··の時間帯である。

沙苗は遊歩道に立ち松葉杖で体を支えながら、頭上の木を見上げていた。公園前でタクシーを降りた時にはまだ彼女を淡く包んでいた光の粒も今は剥がれ落ち、その輪郭は昏く曖昧に溶けていく。沙苗のトートバッグを持ち一歩後ろに立つ僕は、軽く目眩を覚えていた。

今は目の前の相手が誰か分からない黄昏時か…それとも魔物と見紛う逢魔が時なのか……

朧げな彼女が振り向くが、樹影で表情は分からない。

「…で、話ってなあに、久作クン?」

「…·····は、この公園にいたんだ」

自分でも声が上ずっているのが分かる。沙苗は何も応えないが、僕は構わず続けた。

「キャンパス中に『人形の命を助けてって騒いだ変態がいる』って僕の噂が広がったのは、むしろ幸いだった…もう恥ずかしい事は何も無い。

この三日間、僕と同じ文芸学部は勿論、法学部や政経学部、教育学部なんかの全学部の学生、教授や准教授に講師の先生、事務職員から図書館の司書さん、果ては警備員さんにまで話を訊きまくったんだ。皆に怪しまれ、特にお嬢様達にはドン引きされる事も多かったけど…どうせ変態だもの…」

「…何を訊いたの…?」

「キミと人形をセットで見た人がいないか、写真見せて回ってね。キミとのツーショット撮っといて良かった…」

「私、あんな人形知らないって言ったよね?」

「そうだけど…でも誰かが人形をこの公園に持ってきて、落としたか置いていったかしたのは間違いない。それも袋とかに入ってた訳じゃなく、剥き出しだよ?あの人形、子供が忘れたオモチャにしては精巧過ぎるからね。それを外で剥き出しで持ってる人─目立つと思わない?だからこの公園でじゃなくても見かけたら、きっと二度見して記憶に残るはず…そう思ったんだ。訊かれた方は僕の正気を疑っただろうけど…どうせ変態だもの…」

自虐気味に笑う僕を沙苗はジッと見ている様だ。

「…それで、私と人形が一緒にいるのを見た人がいたの?」

「うん、いたよ。

そして、あの人形が何の為の人形なのかも同時に分かった。

キミが人形に色んなポーズを取らせて、建物や花壇なんかの前に立たせてるのを見た人が何人かいた。それをスマホで写真撮ったり、スケッチブックに絵を描いたりしてる目撃証言も取れたよ。

キミは絵を描くのが好きなんだね?

あれはその為の、·····の人形なんだろ…?」

どーるがデッサン人形ドールなのではないかというのは、···の大和田先輩の疑問から導き出した推論である。確かにあれだけ関節が動けば、人間のモデル並に様々なポージングが可能だ。そのデッサン人形を沙苗が絵を描く為に持ち歩いていたなら─そんな僅かな思い付きで、僕は三日間駆けずり回ったのだ。

沙苗はしばらく黙っていたが、やがて頷く。

「この公園でスケッチをした時、あの人形を置き忘れたのね。どこで失くしたか分からなくて…見付けてくれてありがとう」

「いや…でもどうして最初僕が人形を見せた時、『知らない』なんて言ったの?」

「うん……私、よく知らない男に呼び出されて、屋上から突き落とされたでしょ?久作クンの事も警戒しちゃって…関わりたくなくて知らないフリしちゃったの。貴方が善い人だって分かっても今さら言い出せなくて…ゴメンなさい…!」

沙苗はピョコンと頭を下げた。

僕は質問を続ける。

「絵は趣味?…いや、あんな本格的なデッサン人形持ってるんだ、画家とかイラストレーター目指してるんじゃない?」

「まあ、ね…」

「美大とか、そういう系の専門学校に行こうとは思わなかった?」

「あ、うん…ウチの大学、芸術学科もあるから」

「でも結月さん、国文学科だよね?」

「…だからプロになれたらってくらいで、そんな……」

沙苗は言葉に詰まる。僕は緊張がピークに迫るのを感じながら、無理に笑顔を作る。

「結月さんの描いた絵見たいな。あの人形をどんな風に描いたのか…油絵?水彩画かな?アパートの部屋にはキャンバスもあるんでしょ?」

僕の笑顔が彼女からは見えるのか、ホッとした様な声が返ってきた。

「ウフフ、今日は散らかってるから恥ずかしいかな。また今度で良ければね」

「そっか……」

僕はギュッと拳を握った。

「…やっぱりキミは嘘つきだ……」

沙苗のシルエットが昏さを増した。

「キミはこの公園に人形を置き忘れたんじゃない…新宮妃鞠というウチの学生のバイクと接触事故を起こして、人形だけ飛ばされたんだろ?それで急いでその場を離れる為、救急や警察に通報せず人形も捜さず立ち去った…翌日ストーカーしてる相手─麻浦って茶道部員と会う約束してたからね、警察なんかに関わる訳にはいかなかった。

…いや、他にも知られたらマズい事が色々あったんだろ?デートサークルの事…恋愛詐欺の事…そして、蕗村珠子の殺人教唆……

キミは悪質な、は、犯罪者だっ…!」

ゆらり…と沙苗の体が左に傾いた気がして、僕もつられてそちらに視線を流した瞬間──

「久作、危ないっ!」

ハッとした時には遅かった。

バキッ!

「ぐあっ…!」

左膝の外側に衝撃を受けて、僕はよろめく。激痛で手にしていたトートバッグも取り落とし、痛む左膝を手で庇おうと前屈みになる。

「顔上げてっ!」

その声に反応して上げた顎のすぐ前を、ヒュッと何かが掠めていく。僕は「ひっ」と情けない悲鳴を上げて、そのまま尻餅をついた。

目の前の彼女は右手の松葉杖を横薙ぎに振り抜いた姿勢で止まっている。その時遊歩道の街灯が点灯し、仄かに照らされた表情が見えた。

沙苗は面白いモノを見付けた子供の様に、目をキラキラと輝かせていた。

「今の声…いるのね…?」

「あんたみたいな危険な女のとこに、久作独りで行かせらんないからね!」

そう叫んで僕のMAー1の胸元から勢い良く顔を出したのは、どーるである。

大和田先輩が丁寧に直してくれた結果、彼女は再び魂が依り憑くヒトガタになれたのか、生ける人形として甦ったのだ!

「ウフフ…何で久作クンが私の事色々知ってるのかと思ったら…やっぱりお喋りなお人形さんねえ…」

嬉しそうに見下ろす沙苗を、どーるは怒気を孕んだ目で睨み返す。

「二時間位前に目を覚ましてさ、あんたがとんでもない悪魔だって事、全部話したんだ。そしたら久作、これから退院するあんたを迎えに行くって言うじゃん?危ないからって止めたのに…」

「じ、自分で確かめたかったんだ…僕はキミが悪魔だなんて、信じられなくてっ……」

僕の声は震える。膝の痛みもあるが、沙苗を『犯罪者』と呼んだ時からずっと心が張り裂けそうになっていた。勿論、どーるを信じていた。だけど沙苗も信じたかった。だって僕は春からずっと彼女を──だからどうしてもついてくると言うどーるを隠す為に、体格の良い大和田先輩のジャケットを借りてきたのだ。

沙苗はそんな僕を憐れむ様に見て、そして…ニタァと嗤った。

「あ〜あ、久作クン傷付いちゃった…これも全部、お人形さんが余計なお喋りしたせいよぉ…?

久作クン、私の事好きでしょ…?私も貴方の事気に入ってるのにぃ…私のお願い聞いてくれたら、色々楽しい事いっぱいしてあげるんだけどなあ……?」

沙苗は僕を意味ありげに見つめながらニチャニチャと言った。赤い舌がチロチロと舌舐めずりする。その目は僕が魅入られたあの日の輝きとは真逆の、邪悪な光を発していた。

「ふざけんな!」

ジャケットの内側で立ち上がったどーるが、両手を大きく広げた。僕を邪眼から護るかの様に──

「あんた童貞の久作騙して犯罪わるいこと手伝わせる気でしょっ?この異常者!」

「このオモチャ黙らせたらいいコトしようね、童貞クンっ…!」

沙苗が狂気を孕んだ笑顔で、どーるに向かって松葉杖を振り下ろす。ショックなワードが連発されて固まった僕は一瞬反応が遅れた。

─どーるっ…!

ガシッ。

·の右腕が伸びて、松葉杖を受け止める。しかし沙苗の振り下ろす勢いが強く、松葉杖の先端が止まりきらずにその頬を掠めた。血飛沫が僕のジャケットにも散る。

しかし·は全く意に介さずニカッと嗤った。

「待たせたな!」

僕のすぐ横に破一郎先輩がしゃがんでいた。

「先輩っ!」

「あっ…破一郎っ?血がっ!」

僕が叫んだ直後にどーるも振り返って叫ぶ。

「離しなさいよっ…!」

沙苗は掴まれた松葉杖を引き抜こうとするが先輩は離さない。頬からの血がボタボタと地面に落ちても、チェシャ猫は笑顔のまま怯まない。沙苗は更に身をよじるが──

「おい止めろっ!」

「大丈夫、久作さんっ?ゴメンなさい、遅くなってっ……」

僕の背後から遊歩道に駆け込んできたのは、大和田先輩と真名である。

僕にMAー1を貸してくれた大和田先輩は白い丸襟のシャツに白いズボンで医者っぽさが増していて、今日の昼間真名の下宿でどーるの修理が終わった時、僕はつい患者の家族の気分になって『これでこのコは目覚めますかっ?』と口走ってしまった。怯えた顔で固まる大和田先輩に、真名が真剣な顔でどーるは意思を持つ人形なのだと訴えた。一緒に修理をする中で、人形愛に溢れるこの人なら信じてくれると思ったのだろう。そしてその後どーるがゆっくりと目を開けた時、真名は『意識が戻りました!』と看護師モードで笑い、大和田先輩は『うはっ、ホントに生きてる!』と大興奮していた。

そしてどーるから沙苗の正体を聞いて、大和田先輩も真名も僕と一緒に病院まで来てくれると言ってくれた。しかし二人には別に調べて欲しい事があり、公園で合流する約束をしたのだ。真名もサーモンピンクのカットソーに黒いスパッツという動きやすい格好をしていて息が荒い。頼んだ調査に奔走してくれたのだろう。

松葉杖を掴む破一郎先輩、僕の背後から様子を窺う真名と大和田先輩─突然三人も助っ人が現れたので、沙苗も動きを止めている。しばらく僕を無表情に見つめていたが、不意に泣きそうな顔になった。

「ゴメンなさい…私、バイク事故とか転落事件とか色々あって、混乱してるの…。助けて、久作クン…貴方しか頼れる人いないの……」

僕も顔を歪める。

「…僕も結月さんを助けてあげたいよ……」

「ホント?じゃあ──」

「しかし君は、沙苗嬢じゃないからなあ〜!」

素っ頓狂に割って入った破一郎先輩の言葉に、沙苗が目を見開く。先輩はゆっくりと松葉杖から手を離して立ち上がり、固まっている沙苗と対峙する。

「さて、君は誰かな?」

「誰って…久作クンと同級生の結月沙苗よ?」

「いやいや、この変態の間嶋久作がさっき自ら確かめたいと言ってネチネチ質問しまくり、その結果君を『嘘つき』と断じたではないか?」

「でも久作クン、私とは元々友達じゃなかったのよね?私をあまり知らなかったはずなのに、何でそんな事言えるの?」

沙苗の口調がキツくなっていくのを感じながら僕は応えた。

「言えるよ…大学中の人に話を聞いたって言ったろ?」

「大学に私と親しい人はいないでしょ?入院してる間、お見舞いに来たの久作クンだけだもの…私の事知ってる人なんて……」

「いたんだ。親しくはないけど、キミの一番大事な事を知ってる人が…」

僕の言葉に沙苗は首を捻る。

「一番大事な事…?」

「キミはさっき、画家とかイラストレーター目指してるって言ったよね…?」

「え、ええ…」

「入学してすぐ、キミは文連ハウスにある·····の部室を訪ねたんだってね。その時応対した副部長さんに話を聞いたよ。その副部長が『評論や考察で漫画文化を考えるのが主な活動だ』って言ったら、キミは真剣な顔で『漫画は描くモノだと思うので』って返して入部しなかったそうじゃない」

「漫画…?」

沙苗は呆然と繰り返す。

真名も口を開いた。

「私、結月さんのアパートに行って、大家さんに話を聞きました。結月さんにはおかずのお裾分けとかした事もあるけど、パッと見キャンバスに描いた絵なんか見当たらなかったって…。

だから緊急事態だって無理言って、私もお部屋を見せてもらったんです。そしたらあったのは、スケッチブックや原稿用紙に描かれた人形の様々なポーズの絵と、完成した漫画の原稿のプリントアウト、そしてそれを描くのに使っていると思われるペンタブレット……」

真名の言葉に僕は頷く。彼女にはその確認をお願いしていたのだ。

「結月沙苗は漫画家を目指してるんだ。

だから絵だけじゃなくストーリーを作る為に様々な勉強をしようと、文芸学部の国文学科に入ったんだ。僕も文章を書くプロになりたくてここに来たからよく分かる。〈表現者〉は自分の得意分野だけに偏らず、色んな知識を身に付けなきゃダメだって…だから結月さんは入学後のオリエンテーションで、講義の説明を受けてる時言ってたんだよ─『寄り道したい』って…。

確かにあの人形はデッサン用かもしれないけど、ただ絵を描く人じゃないんだよ彼女は。自分の目標に向かってひたむきに生きている。真っすぐで真剣過ぎて、孤独になっちゃうくらい…それを知らないキミは、結月沙苗じゃない……

キミは誰だ…!」

沙苗は答えない。

「考えられるのは一人だけよ」

代わりに声を上げたのはどーるだ。腰に手を当て沙苗をビシッと指差す。

「貴女は──」

····だろうなあ」

「おいっ!」

決め台詞をしれっと盗られたどーるが破一郎先輩にツッコんだ。しかし先輩はどこ吹く風である。

「生きたまま脱魂するのに〈生霊〉は強い執着が必要だし、〈幽体離脱〉にもコツが要るが、他に誰にでも魂が飛ばせるお手軽なフライトプランがあってだな──」

「聞け、破一郎ーっ!」

「破一郎?」

大和田先輩が呟くが、破一郎先輩は構わず続ける。

「ご存知〈臨死体験〉だよ!

死にかけた人間が美しい場所に行ってきたとか、亡くなった家族に遭ったとか、そんな不思議な夢を視たという話は世界中で昔からあったがね…研究の対象になったのは、1892年にスイスの地質学者アルベルト・ハイムが登山時の事故で臨死体験をしたと発表したのが始まりとされる。それから現在までの調査で、例えばオランダでは心停止から蘇生した人の18パーセント、アメリカでは千三百万人が臨死体験をした事があるという証言データが取れたそうだ。

だがせっかくそういう体験をしてもそのまま亡くなってしまっては、その証言はまさに墓場まで持っていかれてしまう。高度な救急医療が発達し蘇生技術が進歩した現代こそ、臨死体験の報告例は増え続けているのだよ。

その体験の内容は人によって細かい違いはあれど、『自分の死の宣告を聞いた』『ブゥーンという耳障りな音が聴こえる』『昏いトンネルの中に入った』『そこから抜け出して光の国に行った』等の共通点が多い。その中でも特によく聞くのが〈体外離脱〉─死んだ自分の体を抜け出して、上から見下ろしてるってやつさ。ホラ、魂が飛んじゃってるだろ、見事に。

つまり、バイク事故を起こして頭を打った妃鞠嬢の魂は、臨死体験で飛び出して──」

「それで沙苗の体に入っちゃったって事でしょっ?」

さっき自分で言いたかった事を途中で遮られたどーるが、意趣返しとばかりに口を挟む。

それを受けて大和田先輩が話し始めた。

「そう、俺も久作君に頼まれてね、〈結月沙苗〉を突き落とした犯人の麻浦と、真名さんに色々やらかした演劇部の青木さんについて調べたんだ。

麻浦は勾留中だけど友達連中が言うには、ヤツがストーカーに遭ってたのは確かに去年の冬かららしい。でも盗撮写真を送り付けたり無言電話を繰り返す犯人が誰か、麻浦自身相手の名前も顔も分からないって言ってたそうだ。

青木さんの方は本人から話を聞けて、ゼータ会ってデートサークルは二年前に一人の女子学生が立ち上げたそうだ。ただその女子学生はSNSで人を集めて資金も提供してくれたけど、正体は不明。

ストーカーとデートサークルの謎の主催者─どちらも今年入学したばかりの結月さんだとは考えにくいよな。その点、新宮妃鞠は経済学部の二年生だそうだ。ゼータ会の『Z』も新宮の頭文字『S』の裏返しになってるし…この二人が入れ替わったと考えると、辻褄が合う──」

「グッジョブ、大和田センセ♪」

「うはっ、ウィンクも出来るんだ、どーるちゃんっ…!」

どーるに笑いかけられてまた興奮する大和田先輩。ニヤケてクネクネしてるので僕が後を引き継ぐ。

「家族の事を訊かれて話を濁したのも、····からだろ?それどころか、結月さんがどこに住んでるかも知らない。唯一持ってたこのトートバッグには、スマホと学生証、財布、ハンカチくらいしか入ってないからね。学生証で名前や学部は分かるし、大家さんの電話番号もスマホに登録されてたけど、住所までは登録されてなかったんじゃない?まさか『自分の住んでるアパートはどこですか?』とは訊けないし…」

「『今日退院でタクシー使うからアパートの住所確認させて』って、電話で訊かれたそうですよ、大家さん…」

補足してくれた真名に僕は頷く。

「だからキミはバイク事故のあった晩はアパートに帰れなくて、絵を描いたキャンバスが無い事も分からなかったんだ。それでひと晩どこかで過ごして、翌日とりあえず麻浦と待ち合わせてた文連ハウスに行ったら、そこで転落事件に遭ってしまった。それでまさか、入れ替わった二人が同じ病院に入院するなんてね…。

もう言い逃れは出来ない。認めた方がいいよ、新宮妃鞠さん!」

「…フッ…ウフフッ……」

そこまで黙っていた〈沙苗〉が嗤い出した。

「ええそうよ、私は新宮妃鞠!

お人形さんの言う通り、事故って気失って、ハッと目が覚めたらもうこの体だった。バイクで轢いた時、ちょうど結月沙苗も気失ったのかな?それで入れ替わって向こうは目覚めないんだから、私ってばラッキー♪アハハハッ!」

「何がラッキーよ、悪魔っ…!」

どーるが睨み付けるが〈沙苗〉の哄笑は止まらない。

「アハハッ…悪魔と入れ替わった可哀想な女の子?そんな話、誰が信じるの?ストーカー?デートサークル?そう、それは今死にかけてる妃鞠って馬鹿な女がやった事。そいつが全部悪い、それで解決じゃない。·は関係ない。残念でした〜っ♪」

「なっ……」

僕達は皆絶句した。そんな…確かにこのままじゃ…!〈沙苗〉は憎々しげに舌を出す。

「私は事故で頭を打って色々忘れた沙苗ちゃんで〜す!漫画は描けなくなっちゃうかもしれないけど、これからまた楽しい事見付けて──」

「あー、ところで間嶋久作」

全く空気を読んでいない呑気な口調で、破一郎先輩が話しかけてきた。

「妃鞠嬢はどんな事故を起こしたと思うかね?」

「え?バイク事故でしょ…?」

僕は虚を突かれて思わず答える。〈沙苗〉も目を丸くしているが、先輩の応答は更に彼女の毒気を抜いた。

「いや、··突き事故だ」

「はあ?」

「何言ってんの?」

僕だけではなく〈沙苗〉まで間抜けな声を上げたが、どーるが場の緊張感を吹き飛ばした張本人に食ってかかる。

「ちょっと破一郎!玉突き事故って何台もぶつかるやつでしょ?今回はバイクと人の衝突だってっ……」

「そのショックで妃鞠嬢の魂が飛び出して、沙苗嬢の体に入る。それで弾き出された沙苗嬢の魂は、妃鞠嬢の体よりもっと入りやすい所に、つい入っちゃったんだと思うけど?

お誂え向きのヒトガタにね」

破一郎先輩の言葉にその場の全員の目が一点に集まった。

視線を受けたどーるは、碧い目を大きく見開く。

「沙苗の魂が…あたしに…?」

破一郎先輩は優しく笑いかけて言った。

「〈たま突き事故〉なのだよ、これは……」

刹那、僕は〈沙苗〉に飛び掛かった。

「どーるの体を返せーっ!」

「なっ、何よあんたっ……」

〈沙苗〉は後ろに退がりながら松葉杖を投げ付ける。僕は腕でガードするが、痛みに怯んでひざまずいた。

「久作さんっ!」「久作君!」

背後から真名と大和田先輩の声が聴こえる。〈沙苗〉を逃してはならない─僕は必死に叫んだ。

「破一郎先輩!もう一度彼女を捕まえてっ…!」

〈沙苗〉も叫ぶ。

「何なのさっきからっ…

··········!」

─え?

一人で会話…?

僕は何を言われているのか理解できず、頬を伝う汗を手で拭った。

掌は、真っ赤に染まっていた。

「久作ぅーっ!」

どーるの声にハッと我に返ると、〈沙苗〉が遊歩道の脇の林を抜けて公園から出ようとしていた。右足はまだ治りきっていないはずだが、お構いなしに走っている。

「ホントにあたしの体ならやめてーっ!」

胸元でどーるが悲鳴を上げる。何だか分からないが、破一郎先輩がいないのなら僕がやるしかない。

「か、返せってばーっ!」

慌てて追い掛けた僕が〈沙苗〉に続いて公園を出ると、彼女は公園前の道と車道との交差点に向かっている。そこには押しボタン式の信号機があるが、今は歩行者信号は赤─乗用車が一台、二台と通過していくのが見えた。

〈沙苗〉はチラッと僕を振り返ると、ゲラゲラ嗤いながら叫ぶ。

「返せって言われると返したくなくなるねっ…面倒くさいから、もう終わり!」

〈沙苗〉は押しボタンを押さずにそのまま車道に走り出た。

「わああーっ!」

僕も絶叫しながら続く。

パァーッ!

クラクションが鳴り響く中、〈沙苗〉はクルリと振り返って足を止めた。僕は彼女を突き飛ばそうと両手を伸ばすが、〈沙苗〉はそれを受け止めるべく腰を落として身構える。このまま二人揃って車に轢かれる気だ。

真っ白なライトに照らされた悪魔が嗤う──

「ちぇすとぉーっ!」

バスッ!

「ぎゃっ!」

僕の胸から飛び出たどーるが、〈沙苗〉の肩にドロップキックを決めていた。真名が直したドレスは破れた部分を切ったので、元よりだいぶ短いミニスカートになっている。お陰で動きやすくなったどーるの両脚がスラリと伸び、綺麗に揃った見事な一撃だった。

怯んで蹌踉よろめいた〈沙苗〉に、僕はラグビーのタックルよろしく飛び付く。そのまま抱き合った形で回転し、僕を下にして路面に転がった。

ドンッ。

「んげっ…」

背中を強かに打ち付けて一瞬息が止まる。

ギャアンッ……

耳元を激しいブレーキ音が通り過ぎていく。車道は二車線で、僕と〈沙苗〉はその反対車線を抱き合ったまま転がり、向かいの歩道の手前でようやく止まった。

「久作さーんっ!」

間髪入れずに駆け付けた真名と大和田先輩が、ボタンを押して信号を変えた。これで反対車線から他の車が来ても停まる。僕は朦朧として自力では動けず、〈沙苗〉も体を預けてグッタリしている。僕は眼鏡が吹き飛んで視界も曖昧だが、気力を振り絞って周囲を見回した。二メートル程先の路上にどーるが俯せに倒れている。

「どーるっ……」

僕は仰向けで〈沙苗〉をラッコの様に腹に載せて、どーるに向かって背中でズルズルと這う。そして右手は〈沙苗〉を抱いたまま、左手でどーるを拾い上げた。見たところこの間の様に壊れてはいない…僕はホッとしてその小さな体を抱き寄せる。

僕達を轢きかけた車は黒いバンだったが、だいぶ先まで進んで停まっていた。真名と大和田先輩が僕達を歩道に引き上げている間に、運転席から血相を変えた中年男性が降りてくる。

「何やってんだ!死ぬ気かっ?」

「す、すみませんっ…!」

真名と大和田先輩が必死に頭を下げてくれて、当初怒っていた男性の態度も徐々に軟化していった。

「…まあとにかく、事故らなくて良かったが…あんたら大丈夫か?怪我したなら救急車呼ぼうか?」

「えっと……」

真名はチラリとこちらを見るが、僕は〈沙苗〉とどーるを抱いたまま歩道に座り込んでいた。運転手からは恋人を庇っているナイスガイか人形に恋する人でなしか判断が付かなかっただろうが、とりあえず〈沙苗〉を逃さないつもりだった。〈沙苗〉は呼吸いきは荒いが目を薄く開けていて意識はある様だし、僕も彼女も服は汚れて所々破れているが目立った怪我は無さそうだ。僕が頷いたのを見て、真名が後は自分達で何とかすると伝える。それを聞いた運転手は明らかにホッとして、バンを走らせ去っていった。

「無茶しやがって…ホントに事故らなくて良かったよ…」

大和田先輩が呆れた様にそう言い、真名もフウッと深く息を吐いた。

「…あたしは…事故った…みたい……」

微かにどーるの声が聴こえて、僕は慌てて左手の彼女を見る。

「どうした?やっぱりどこか壊れてっ…?」

「足は…痛いけど…そう…じゃなくて……」

どーるの足を見ようとして気付いた。確かにどーるの声だと思った。しかし喋っているのは人形じゃない──

「また…たま突き事故…したっぽい……」

(まさか……)

僕はゆっくりと右手に視線を移す。

目に力が戻ってきた沙苗が、僕を見上げていた。

「……どーる…?」

震える声でそう尋ねると、沙苗は小さく頷く。僕は一瞬笑いかけて、ハッとする。

〈沙苗〉の演技ではないのか──?

疑う様な目付きに気付いたのだろう、沙苗はちょっと眉根を寄せて、やがて右手の人差し指を自分の唇に当てる。そしてその指を動かして、そのまま僕の唇に当てた。

「…間接キッス」

そう言ってニッコリした沙苗どーるを、僕は思い切り抱き締めた。

左手に握られた人形はパッチリと碧い目を開けて、ただ黙って微笑んでいた。

「…あの日、あたしはバイトを終えて帰ってきた後、このコとスマホとかだけバッグに入れて散歩に出たの。漫画のストーリーやプロットに行き詰まると、歩きながら考えるのが癖なのよ。気が付くと随分遠くまで歩いてる事もあって、あの日もいつの間にか大学の近くまで来てた。あたしのアパートは麗青学苑前の一つ先の駅だから、三十分位かかるんだけどね…。

そしたら綺麗な満月だったからさ、どこかで月を背景バックに使えそうなポーズを撮っときたくなって…〈フラワームーン〉って言うんだって、五月の満月。それでこの公園を見付けて……」

公園内に戻った僕達は、遊歩道側より明るい遊具がある広場で話をする事にした。無理に走り右足の痛みがぶり返した沙苗をベンチに座らせ、真名が隣で服の汚れをはたく。僕と大和田先輩は松葉杖とトートバッグを回収して、ベンチ前の象の滑り台の鼻の上に並んで座った。

ゆっくりと語る沙苗の膝の上には〈どーる〉が載っている。かつての記憶を取り戻した沙苗だが、人形だった時の事も憶えていると言う。彼女は愛おしそうに、自分だったヒトガタの髪を撫でる。その右隣に座る真名も少し切ない目をして〈どーる〉を見つめていた。

「このコはね、あたしの従姉妹いとこが造ってくれたの。歳はだいぶ上で、今はフランス人の実業家の旦那さんと結婚して向こうで暮らしてる。あたし中学の時両親亡くしてね、それからずっとその従姉妹が親代わりで可愛がってくれてたわ。

従姉妹は人形作家になりたかったの。だから同じクリエイター志望のあたしを応援してくれて…生活費とか学費とか、親の遺してくれたお金もあったけどあたしは高校出たら働くつもりだった。でもあたしが漫画家になりたいのを知ってた従姉妹が『もっと勉強しなさい』って、大学の入学金援助してくれたんだ。

それで麗青学苑に合格したお祝いに、このコをプレゼントしてくれたの。『To Sana』ってね…」

「なるほど、人形作家を目指してたからこんな見事なデッサンドールを造れたんだな」

大和田先輩が納得した様子で頷く。沙苗が語る内容は、明らかに人形だった本人しか知らないモノだった。〈どーる〉の首に『To Sana』と書かれているのは妃鞠だった〈沙苗〉は知らないし、さっきの…か、『間接キッス』は当然、絶対、知らない。本当に人形どーる人間さなえに戻れたのだ。沙苗の魂が妃鞠の魂を弾き飛ばしたのだ。

飛ばされた妃鞠がどうなったか、昏睡状態の自分の体に戻ったかどうかは分からない。幽体離脱の上級者は国際宇宙ステーションまで飛べると言うから、隣の駅の病院くらいになら余裕で戻れるかもしれないが…。でもとにかく、沙苗さえ元に戻れれば、それで──

だけど本当に〈どーる〉はもうただの人形なのか?

もうあの生意気な口調で喋ってはくれないのか…?

沙苗が話を続ける。

「ホントにこのコ良く出来てるよね。市販のデッサン人形でもここまで関節数多いのは珍しいし、高価たかいよ。しかも顔の造型も可愛いし…従姉妹の技術ウデ凄くない?

けどそれでもプロにはなれなかった…そのくらい自分のウデだけで食べてくのは厳しいんだからねって、彼女はいつも言ってた。まあ人形造りの参考にしたくてビスク・ドールのコレクターの旦那さんを紹介してもらったら、一目惚れされて人生変わってOKって笑ってたけど……」

沙苗は苦笑して、しかしすぐに真顔になる。

「あたしは、プロになりたい」

その真っすぐな目の光─間違いない、僕の知っている沙苗だ。沙苗は本当に還ってきたのだ。

…その代わりにどーるは……

「だから色々勉強できる大学を選んだけど…ちょっとイメージ違ってね。··がいっぱいいるだろうって期待してたのに、漫研も評論とかばっかだって言うし︙。だからあたし、独りでいいやって思ってたんだけど……

あんたならトモダチになってやってもいいぞ、久作?」

(あっ……)

その悪戯っ子の様な笑顔は、よく知っていた。

─何だ…··じゃないか……

「…くふふ、久作さんったら……」

「何泣いてんだ、久作君?」

真名が微笑み、大和田先輩が目を丸くする。

「えっ、僕泣いて…あいたっ?」

「何やってんの、傷に涙が滲みて──」

呆れる沙苗に言われて思い出す。

出血した頬がヒリヒリする。

「いや…頬を怪我したのは破一郎先輩だよ?何で僕まで怪我してんの…?

それにしてもまたいつの間にかいなくなって…ホント、あの人、神出鬼没なんだからっ……」

沙苗と真名が辛そうに顔を歪め、大和田先輩はポカンとしたまま言った。

「…破一郎って、映画部の希津水破一郎か…?

去年死んだ……」

─え…?

破一郎先輩が…死んだ…?

「…な、何言ってんです大和田先輩…?破一郎先輩が死んだ…?ついさっきまでいたじゃないですか!

ねえ、どーる…いや、沙苗クン。破一郎先輩と三人でキミの謎を解こうって約束したよね?あの人はその約束を守ってくれたんだ、僕は先輩を見直したよ。妹の巡未を一方的にフッたのも…とりあえず理由くらい聞いてあげたい。

破一郎先輩!近くにいるんなら出てきてくださいよっ…どーるも人間に戻れたし、悪魔もどっか行ったんですよっ?先輩のお陰です!

素直にありがとうって言いますからっ…先輩!ねえったらっ……」

頬の傷が酷く痛み出した。さっきよりボロボロと涙が溢れて止まらない。

霞んだ視界の向こうから真名の声が聴こえる。

「私とどーるちゃん…沙苗ちゃんは何度も久作さんが破一郎先輩に変わるとこを見ました…。だから二人で相談して…私、久作さんに内緒で調べたんです。

希津水破一郎先輩は文芸学部映像学科の二年生だった去年の夏、映画部の新作映画のロケハンの為に一人で海に行ったんです。ちょうど夏休みで砂浜には海水浴客がたくさんいて、破一郎先輩はそこから離れた岩場で良さげな撮影場所を下見してた…。

その時、小学生の男の子が遊泳禁止の崖の下で泳いでて、深みに足を取られちゃったんです。それで溺れて…近くで見てた人の話では、破一郎先輩は迷わず海に飛び込んだそうです。だけど崖に打ち付ける波は複雑で、先輩は男の子が呼吸できる様に体を持ち上げてあげてたけど、自分は何度も波に呑まれて……

やがてライフセーバーの人が来てくれて、男の子は仰向けに浮いてて助けられた…けど…その下でその子を支える様に両手を上げたまま、破一郎先輩は──」

棺の中の破一郎先輩は安らかな顔をしていた。傷ひとつ無く、ただ眠っているだけの様に見えた。

一緒に通夜に行った巡未が泣きじゃくりながら顔の横に置いたのは、先輩の誕生日に巡未が買ってあげたという赤い革製の腕輪バングルだった。『破一郎さんはいっつも黒い服着てるから、ワンポイントの赤がカッコいいんだよ!』ってニコニコしていたのを憶えている。海岸沿いに駐めた車の運転席に置いてあったそうだ。革製品を海水に浸けたら変色するから外したのだろう。先輩も大事にしてくれていたのだ。

その日から巡未も人が変わった様に塞ぎ込んだが、僕の方がダメージが大きかった。ヘタレの僕は妹よりメンタルが弱いのだろう。そりゃあ変な人だったけど、先輩は僕の目標だったのだ。だから同じ大学に行って、お互いプロのクリエイターになって、いずれは高校の頃みたいに僕が書いた脚本であの人が映画を撮って──

破一郎先輩の死が信じられなかった。

受け容れ難かった。

受け容れたくなかった。

だから、受け容れない事にしたんだと思う。

破一郎先輩は巡未と別れて、それで僕とも連絡を取りづらくなっただけ─僕も妹を蔑ろにされて先輩と距離を置いただけ─そういう··で自分を騙した。周りから先輩の話が出たらそれも破綻しただろうが、ちょうど受験勉強真っ盛りの時期で誰とも顔を合わさずに自室に籠もっていても不自然ではなく、僕は思う存分その設定に浸れた。

破一郎先輩と同じ大学に行く─その事だけを考えて勉強に打ち込んだ。そして空いた時間には、博覧強記に見せかけて偏った知の虚人だった先輩が好きそうな怪しげな知識を、本やネットで蓄えた。先輩と再会した時侮られない様に…そんな妄想を育て続けて。

そして今年の春、晴れて麗青学苑の新入生として先輩が通っていたキャンパスに足を踏み入れた瞬間─·が顕れたのだ。

『入学おめでとう間嶋久作!

ここの文芸学部なら君の厨二病をもっとこじらせられるぞ〜』

「…多重人格…なのか……?」

そう呟きながらもそれが自分の中の別の人格なのか、或いは幼児期には多くの人が持っていると言う〈空想上の友達イマジナリー・フレンド〉が僕の体を使って実体化したのか、よく分からない。大切な人を失った喪失感や孤独感による過度な精神的ストレスから自身の心を護るために、そんな存在を生み出したのかもしれない。

·が顕れたのは、『入学式』の立て看板に飾られた赤い紙花を見た時だった。きっとあの赤いバングルのイメージが強烈に残っていたのだ。以来何か赤いモノを目にした時、それが引き金トリガーとなって〈破一郎先輩〉は出現する様になった。さっきは頬から飛び散った血がそうだったのだろう。

また真名の声がした。

「久作さん…自分でも思い出したんでしょ?いえ…ホントはずっと分かってたんじゃない…?もう破一郎先輩がいないって……」

「あ……」

頭を抱えてうずくまる。

─頬が…痛い……

フワッと柔らかいモノが僕の体を包む。

沙苗が覆い被さる様にして僕を抱き締めていた。

「破一郎は最後に、悪魔を連れてってくれたんだよ…」

沙苗が少し体を引いたので僕が顔を上げると、街灯に照らされた彼女はキラキラと笑っていた。

─そっか…先輩が…悪魔を……

「それはどうかな?」

その可愛らしい声に、沙苗がビクリと振り返る。大和田先輩も象の鼻から腰を上げ、凝視する先のベンチでは真名が怯えた表情で立ち上がっていた。

座面の上で、人形が腰に両手を当てて仁王立ちしている。

グルリと首を回して僕達をめ付ける。栗色の巻き毛が揺れ、碧い瞳が妖しく煌めいた。

「う、動いてるっ?あたしはここにいるのにっ…?」

顔色を変えてよろける沙苗を、僕は立ち上がって受け止める。

「まさかっ…!」

「嘘だろっ?」

真名と大和田先輩が叫ぶ。

僕は〈破一郎先輩〉が─いや、··言った事を反芻した。

たま突きで弾き出された魂は、入りやすい所に入る…お誂え向きの…ヒトガタにっ……」

妃鞠の…悪魔の魂が、この人形に…?

人形が、ニヤリと嗤った。

まるで悪魔の様に──

「勿論、所謂いわゆる〈多重人格〉─〈解離性同一性障害〉によって生じた〈別人格〉という可能性もあるが、私はイマジナリー・フレンドだと思いたい。何故って、こちらを別人格としてしまうと間嶋久作が〈主人格〉となるではないか?こんなコミュ障ヘタレ陰キャのあるじは御免被る!

イマジナリー・フレンドは自分と同じ子供の姿で現れて、普通の友達と同じ様に喋って笑って、一緒に鬼ごっこやかくれんぼもしてくれる。その生成メカニズムには、実際にはいない存在をイメージ出来る空想力、そのイメージを具体的に視覚化・聴覚化する能力が必要なのだが、最も過剰に作用しているのは社会的認知能力なのだ。

社会的認知とは、他者や自己、集団と言った〈社会的存在〉をきちんと情報として認知する事を指すのだがな、幼児でも〈自分〉と〈お友達〉の区別は付くのだから、社会的認知能力は人間が相当早く身に付けられる能力だと言える。その能力を空想で生み出したモノに対して働かせると、目の前のイメージを〈お友達〉として認知してしまって、イマジナリー・フレンド化するという訳で──」

「ちょぉっと待てぇーっ!」

行き先不明の唐突な薀蓄うんちくを得意げに語る人形に、沙苗が思い切りツッコんだ。このやり取りは見た事がある…沙苗がワナワナと指差した。

「あんた…まさか……

破一郎っ?」

人形は三日月の様な目と口で、ニカッと笑った。

「更に人一倍空想力が豊かで、かつ社会的認知能力が強いタイプの子供は、イメージされた相手が人間以外でも『自分と社会的にやり取り可能な他者』として捉えてしまう。そうなると人間だけではなく、ぬいぐるみやオモチャ、ペットの犬や猫、果ては漫画やアニメの登場キャラクターさえもイマジナリー・フレンドに出来るのだ。勿論、··もね。

そんなイマジナリー・フレンドは子供だけではなく、大人になっても作れるらしい。しかも大人は架空の話し相手や相談相手として、自身で意識的にそれを生み出すことが出来るそうだぞ。自分が理想とするイマジナリー・フレンドの容姿や年齢、喋り方や、その人物の思考パターン等を具体的に設定する。そして例えば何か答の出ない悩みにぶつかった時、その自身が作り上げた〈空想の相棒〉と質疑応答する事で次第に複雑な対話が可能となり、もうひとつの人格が生まれると言う。

こうなるとどうだろう?空想の母胎でスクスクと育ち、細部まで緻密に練り上げられたイメージの人格が他者としてしっかり認知されたら、そこには普通に生きている人間と同じ重さの魂が生まれるのかもしれないな。

そう、·····♪」

サムアップするチェシャ猫の顔をした人形──僕はヘナヘナとへたり込む。

「じゃあ…まず破一郎先輩の魂が人形どーるに入って沙苗クンの魂を弾き飛ばし、その沙苗クンの魂が妃鞠さんの魂を弾き飛ばした…って事…?」

「という訳で沙苗嬢も真名嬢も、あとそこの熊的な人も、以後よろしく〜!」

人形になった先輩は全員にウィンクして飛び回る。架空の存在だったくせにこの存在感…真名はヒクヒクと引きつった笑いを浮かべているが、大和田先輩は「うはっ、凄え!」と生き返った人形に興奮している。僕も呆然としていたが、ふと目の前の沙苗の肩がワナワナと震えているのに気が付いた。

「冗談じゃないわよ…どうしてくれんのよ……」

「沙苗クン…?」

「次回作はこの人形を主人公にした、ファンタジックなラブ・ストーリーを考えてたのよ!その為にスケッチもポーズ写真も山ほどっ……

中身があんたじゃ、イメージぶち壊しよ!」

「いや、私は意外とモテるのだぞ?」

「やかましいっ!」

その後確認したところ、入院中の妃鞠はまだ昏睡状態のままだと言う。僕達は話し合った結果、これ以上彼女には関わらないと決めた。沙苗が人形として妃鞠の犯罪の告白を聴いたなどとは説明できる訳も無く、沼警部補や槌田巡査部長に報告のしようが無い。

幸い沙苗が茶道部員にストーカーしていたと疑われた件は、時期が合わないので向こうの虚言だと判断された。蕗村珠子の殺人に関しても実行犯は捕まっているし、妃鞠が音信不通になったのでデートサークルのゼータ会も自然消滅したらしい。

妃鞠が沙苗の体を使えなくなった事で、これ以上の犯罪が起きる芽は摘まれたのだ…。

「…結局あの人、何が目的であんなに悪い事ばっかしてたのかな…?」

体育座りをしている沙苗は、膝の上のスケッチブックに鉛筆を走らせながら呟く。横で胡座をかいて沙苗が資料用に買った『西欧貴族ファッション大全』を眺めていた僕は、彼女の横顔に視線を移して応えた。

「新宮家は相当の資産家で、妃鞠さんは幼稚園から麗青学苑に通ってる生粋のお嬢様なんだって。容姿端麗、性格も明るくっていつも友人に囲まれて、成績も常にトップ、スポーツも万能だったらしい。大学卒業後は父親の事業を手伝う事も決まってたとか…正直、僕とは何もかも違い過ぎて、彼女が何を考えてたのか想像も付かないよ…」

「まあね…」

沙苗はスケッチの手を止め、僕も畳に目を落として溜息をついた。

ここは沙苗の1Kのアパートである。あれから一週間以上経つが、僕は学校帰りにこうやって何度か彼女の部屋を訪ねている。と言っても付き合っているとか、そんな関係になった訳ではない…まだ。沙苗の足が治りきっていないので、真名と共に通学や日用品の買い物等をサポートしているのだ。今日は真名は演劇部の活動があるので、僕は同じ講義を受けた沙苗を送りがてら一緒に夕飯の買い物をして、二人でオムライスを食べた後に寛いでいるところである。

沙苗は白いTシャツにサンドベージュのオーバーオール、僕も草臥れたグレーのシャツとジーンズという貧乏学生感に溢れている。超絶お嬢様の妃鞠が今も沙苗の中にいたら、この築三十年で家具も殆ど無い四畳半を見てどう思っただろう。畳も色褪せて絨毯も無し、洋服も押入れに仕舞っていて戸棚のひとつも無いので、あの真名の下宿より狭くて味気無い。あるのは漫画の原稿と様々な資料、そしてスケッチの山─ストイック過ぎる。物珍しさにキョロキョロしていたかもしれない。

でもここには沙苗の夢と未来が詰まっている。同じ物書き─〈表現者〉を目指す僕にはキラキラと輝いて視えた。僕も彼女の隣で夢に向かって……

「…一応女子の部屋なんだから、あんまりジロジロ見ないでくれる?」

「えっ、あっ、ゴメンっ…!」

気付けば沙苗が横目でジトッと睨んでいた。やはり彼女いない歴イコール年齢の僕には、ここら辺の機微が無い。しばらくはトモダチと思ってもらえるだけで上出来か…。

「…ホント、女心分かんないな」

「え?」

顔を上げると、沙苗は呆れた様に笑っていた。

「やっぱりあんたも、〈魂の距離〉を掴むのが下手な人なんだねえ……」

「魂の距離?」

聞き慣れない言葉に僕が首を捻ると、沙苗は表情を引き締めてこっちを向いた。

「真名ちゃんが言ってたんだ。この間『人形の家』でノーラってたじゃない?それって自分の中に別の·が入ってくる感覚なんだって。普段人見知りで他人ひとと上手く付き合えない真名ちゃんは、そうやって自分じゃない誰かになってみる事で初めて、他人と自分の感性や気持ち─こころの違いを実感できるんだって。それを頼りに日常生活でも何とか周りの人との距離感を掴もうとしてる。『生き方が不器用なの』って笑ってた。

でもあたしもそうなんだ。自分の理想ばっか追いかけて、他人に合わせる事が出来ない。誰かに『私も漫画好き』って笑いかけられても、『こっちは真剣なんだから一緒にしないで』って壁を作っちゃう。魂の距離感が分からない…だから大学でも孤立しちゃったのよ……」

ズキン、と心臓むねが疼く。「僕も…」と言いかけて沙苗を見ると、『分かってる』と言う様に彼女は頷いた。

「今回色んな事件が繋がっちゃったのは、そんな生きるのがヘタクソな··が惹かれ合ったからじゃないのかな?」

「同類って、誰と誰が…?」

「だってあたしは〈どーる〉に、あんたは〈破一郎〉に、そして妃鞠あのひとも〈結月沙苗〉になってたじゃん。皆〈自分〉に自信が無かったり疑問を持ってたりして、魂が不安定な同類なんだよ。だから真名ちゃんは意識してノーラになってたけど、あたし達の魂は勝手にフラフラ他所よそに行っちゃったんじゃない?

そんな魂の····を上手く取れない連中が人形ヒトガタを中心に集まっちゃったから、たま突き事故が起きたんだと思うわ」

「な、なるほど…」

魂の距離か…確かに僕達が立て続けに事件に巻き込まれた中心には、魂の器としての人形どーるがいた。流石、真名も沙苗も〈表現者〉だ。面白い発想をする。そう感心していたら、沙苗は不意にニッコリと微笑んだ。

「でもあたしも真名ちゃんと一緒で、今度の事で自分の生き方を見つめ直せた気がする。自分じゃない誰かの気持ちも、もっと知りたくなった…。

あんたは?何だっけ、エンパシー?共感する為に相手の靴を履くってやつ…あんたもそれをするんじゃなかったの?」

「あ……」

それは沙苗の転落事件直後に他人の気持ちにちゃんと向き合おうと反省して、僕が言った事だ。

「…そ、そうだね…妃鞠さんの靴も履いてみないと…」

「そうじゃなくて」

ピシャッと言われて顔を見れば、笑っていた沙苗がむくれている。そんな表情がクルクル変わるところは人形だった時と変らず、僕を魅了する。

·····、履いてくんないの…?」

「え……」

少し頬を染めて真っすぐ見つめる沙苗に、僕は呆けて固まる事しか出来ない──

「そういうとこだぞ、間嶋久作!

だから貴様はいつまでも童…」

「わあっ、う、動いちゃダメですよ、·····っ…!」

余計なお世話を口走りかけたのは、人形の〈破一郎先輩〉である。は僕達の前に置いてある、この部屋唯一の家具の炬燵テーブルの上にいた。そこでサッカーのスライディングの様に地面スレスレで回し蹴りを決めていて、沙苗に『何か戦うポーズをして』と言われた先輩が嬉々としてやったのがこの〈水面蹴り〉だった。クルリと回った瞬間にミニスカートから右脚が鎌の様にしなやかに放たれ、確かに見栄えはする。

人形になった先輩を『どーる先輩』と呼ぶ提案をしたのは沙苗である。確かにこの見た目では『破一郎』より妥当かもしれないが、厄介な二人が合体して面倒くさくバージョンアップしてしまった感は否めない…。

だけど僕は本当に感謝している。

あの夏の海と同じ様に、沙苗の体に飛び込んで助けてくれた先輩に──

「しかしこの水面蹴りで私は誰を倒すのかね?沙苗嬢の構想ではどうなってる?」

「それはまだ決めてないけど…仕方無いじゃない。中身があんたになったせいでちっともラブな展開浮かばないんだもん。だから謎解きと冒険のアクション物を考え始めたばっかで……」

「そうだな…この技は本来相手の足元を刈るのだがそれでは平凡か。うむ、地面から出てきたヤツを攻撃するのはどうだ?」

「…何が地面から出てくるって…?」

沙苗の声が低くなるが、僕も嫌な予感がする。

「そもそも吸血鬼と呼ばれる存在が生まれたのは、土葬を習慣とするヨーロッパの村で死んだはずの人間が夜な夜な村人を襲うという事件があったからだ。それは寝ている間に死人に首を絞められるというモノなのだが、無呼吸症候群等の呼吸器系の不具合と夢が重なった結果と考えれば説明も付く。

しかしその犯人とされた者の墓を掘り返してみたら、埋められていた死体はまるで生きているかの様に腐敗が進んでおらず、髪や髭、爪も伸びていたのだよ。村人はもうパニックになり、この〈生きている死体〉を再び殺そうと体に杭を打ち込む。すると怖ろしい事に、死体は断末魔の悲鳴を上げるではないか!

この生きている死体の報告例は各地にあってだな、それが広く伝承されて形を変えていった結果、不死身の吸血鬼伝説となっていくのだよ。まあ腐敗が進んでいなかったのは、腐敗を進ませる細菌の働きに必要な空気が土中では足りてなかった為だし、死後も細胞は活動するので髪や爪が伸びる事もある。杭を打たれて出た声は、肺や消化管に溜まっていた腐敗ガスが声帯を震わせただけなんだが……

という訳で墓の下から死体が生き返って、地面から出た頭に私が水面蹴りを叩き込む。それで死体が体液を撒き散らしながら『プギャア〜ッ』と断末魔を上げるクライマックスはどう──」

「却下ーっ!」

子供の頃から壊したかった。

目の前のミルクもパンもご飯も、オモチャも砂山も自転車も、花も虫も猫も犬も、お父様もお母様も友達も先生も、み〜んな掴んで叩いて踏んづけてグチャグチャにしたかった。それが私─ホントの私。

だけど人間って環境が育てる。裕福で上品なお嬢様…期待されたエリート…ずっとそう扱われてきて私は出来上がった。お母様は私の事を『オモチャを壊しちゃうおっちょこちょい』だと決めつけていたけど、それも完璧だと可愛げが無いのでちょうどいいと思っていたのだろう。ホントの私を見ていない、自己都合のレッテルだ。

でもそんなレッテルにがんじがらめにされているうちに、私自身〈期待される自分〉を演じる様になってしまった。世間体とか気にしたつもりないのに、どこかでリミッターが掛かるんだ。悪い事しようとしてもすぐ、バレない為にはどうしたらいいか考えちゃう。勿論、バレたら次が出来なくなっちゃうからいいんだけど…そのせいでホントに大きな事は出来なかった。それが私の限界。

きっとホントに壊したかったのは、··だったんだ。

でも沙苗あのコの中にいた時は違った。バレてもいい、捕まってもいいから、どんどんやりたい事やってみたくなった。実際バレても開き直れた。元の体の私が責められる事はないから?…ううん、違うな。

きっとあのコは、自分で自分がどうなりたいか決めてるからだ。その生き方が染み付いた体だから、私の魂も解放されたんだ。あの変な男が言ってた通り体が魂を入れる器なら、同じ魂でも器が変われば違う事が出来るんだ。

そうだ、親の期待や他人の羨望から生まれるつまんないレッテルは、血筋とか容姿とか成績とか目に見える私の体に貼られたモノ。私の魂にはリミッターは掛けられてない。もう気付いた─私は自由。

それにもしかしたら、一度魂が抜けた私の体はリセットされたんじゃない?戻れたらあのコの中にいた時みたいに、私はやってやる。自由に全てを破壊し尽くしてやる。

戻れたら一番最初に壊したいのは──

「……え…?ああっ!

分かりますか?見えますかっ?

先生、三〇二号室の患者さんが目を覚ましました!

ハイ、そうです、新宮妃鞠さんっ…!」

─やっぱりお人形さんかな……

(了)

本島幸久

いかがだったでしょうか? 大学生の時に描こうとしてた漫画が基になっているので当時の自身の気分がだいぶ反映されてますが、初めて書いた長編ミステリーとしてはかなりやりたい事をやれました。勿論未熟すぎるうえにくどい文章なのは自分でも承知ですが・・・少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

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  • ある日突然にどーる   第五話 魂の距離

    夜空に浮かんだ満月が白く輝く。 私は丘の上の道路で愛車のレブル250を停め、その月を見上げた。 五月の満月は北半球では〈フラワームーン〉と呼ばれているそうだ。花咲く季節の月──実際少し前まで寒さ凌ぎにちょうど良かったレザーのライダースーツも、今は下だけ履いて上は黒いハイネックニットで済ませている。ヘルメットもフルフェイスではなく半キャップ型の黒いダックテールだ。 ふと風が吹いて、背中に伸びた髪を揺らす。 (気持ちいい……) お母様は私がバイクに乗る事にずっと反対していた。私は決してスピード狂ではなくのんびりと風に吹かれたいだけ、お嬢様育ちのささやかな背伸びなのだと散々説明したのだが…… ─貴女は子供の頃からおっちょこちょいですからねえ。ホラ、オモチャもすぐ壊しちゃって…。 そう言ってクスクス笑うお母様にとって、私はいつまでも積み木やぬいぐるみで遊ぶ小さな女の子のままなのだろう。しかし今乗っているレブル250は車体が黒で統一されていて、そのシンプルでヴィンテージライクなデザインが気に入っている。決して可愛らしいオモチャではない。お母様はそこにも口を出してきたが…… ─妃鞠さんにはもっとお洒落なデザインが似合うのではなくて…? (いいえ、お母様…) 私はちょっとだけ笑って、アクセルを捻りクラッチレバーを離した。目の前に十字路があったが、まだスピードが上がっていないのでそのまま右折する。時刻は午後十時を過ぎて辺りに車の気配も無く、私は油断していた。 曲がった先に、人が立っていた。 (あっ……) 一瞬確認できたのは、相手が私と同年代の若い女性である事…その胸に両手で抱きかかえている白いドレスの人形……私は避けようとしてハンドルを切るが、バランスを崩す。ぶつかったかどうかもよく分からなかったが、人形の女性は道路に倒れ、レブル250も横滑りして、私はシートから放り出された。ダックテールが吹き飛んで、私は直接アスファルトに頭を打ち付けながら転がり、仰向けに止まった。 ─…確かにおっちょこちょいなのかな…… 最後に見たのは、真っ白なフラワームーン── 麗青学苑大学敷地内の奥にある通称〈文連ハウス〉には、文化部の部室が集まっている。僕─間嶋久作がキャンパスを駆け抜けてその入口前に辿り着いた時、慣れない全

  • ある日突然にどーる   第四話 悪魔の確率

    わたしは捨てられた。 ずっと暮らしてきたお家から放り出された。 ユルサナイ…ユルサナイ…… 『もしもし、わたし。 今ゴミ捨て場にいるの』 「は?誰なの…?」 『もしもし、わたし。 今近くの駅にいるの』 「何言ってるの?こっち来ないでよっ…」 『もしもし、わたし。 今角のコンビニにいるの』 「やめて!来ないで!」 『もしもし、わたし。 今あなたのお家の前にいるの』 「入ってくるなっ、入ってきたら承知しないよ!警察呼ぶよっ! ……ハッ、何よやっぱりイタズラ…脅かしてっ…!」 『もしもし、わたし。 今、あなたの後ろにいるの』 「被害者の名前は蕗村珠子・七十二歳。ご主人と息子さんを亡くし、その遺産と遺族年金で麗青の丘の上に独り暮らしをしている。君達に協力してもらった似顔絵のお陰で彼女の身元と住居が判明したんだが…一昨日─木曜日の夜、その家の玄関で亡くなっているのを訪ねていった捜査員が発見したんだ。 死因は─刺殺だ」 思わずゾクリと背筋に嫌な震えが走る。僕─間嶋久作は、刑事から殺人事件のあらましを聞かされるという生まれて初めての状況に、心拍数が上がり続けていた。 ここは僕が通っている麗青学苑大学の近く、世田谷北警察署の応接室である。台風一号の影響で数日来続いていた悪天候も回復し、晴れ間が戻ってきた土曜日─爽やかな陽気に合わせて黄緑の半袖のポロシャツと薄手の白いズボンという軽装で来たのだが、それでも緊張と昂奮で膝の上の掌は汗でベタベタだった。 「その…蕗村さんというお婆さんが、詐欺の犯人なのは間違いないんですよね?」 僕は今話してくれていた刑事課の沼警部補に尋ねた。向かいのソファーに座る痩身に黒スーツの彼は三白眼をギョロリと巡らせ、左隣の槌田巡査部長を見る。狐の様な細い目に丸眼鏡を掛けたグレーのスーツの生活安全課の刑事も、険しい顔で頷いた。 「昨夜連絡した通り、蕗村珠子のPCから麗青の女子大生の写真データが何十人分も見付かったからね。勿論、君の写真も……」 槌田巡査部長はそう言って僕の右隣に座る楠本真名を見る。ビクッと背筋を伸ばす真名もポニーテールに七分袖の白いカットソー、デニムのサロペットパンツという涼しげな格好だが、やはり嫌な汗をかいているのでは

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    『その時、冷えかけた薄暗い光で、その造られたものの鈍い黄色の眼が開くのが見えた。それは荒々しく呼吸し、手足をひきつるように動かした。 この大激変に接した時の私の感動をどうして書き記すことができよう……』─アハハハハ…また一人馬鹿が出来た! ザマアミロ……「うーん………」 どんよりと曇った空の下、僕─間嶋久作は、その立派な庁舎を見上げて立ち竦んでいた。 世田谷区にある世田谷北警察署である。 丘の上の閑静な高級住宅地の真ん中にあるこの警察署は、ちょっとしたポストモダン建築と言うのか、洒落たラインの建物である。壁の色も赤褐色の煉瓦色で、官庁と言うより美術館とか文化会館の様な佇まいだ。緑も多いセレブな街の景観を壊さない為の配慮なのかもしれないが…入りづらい。 入口の自動ドアの前には、立って辺りを監視している制服の警察官が一人いる。その警官は別にこちらを注視してはいないのだが、僕はどうも不審者としてマークされている気がしてならなかった。生来ネガティブ思考で被害妄想気味なので気のせいなのは分かっているが…入りづらい。 実際には僕はこの近くの麗青学苑大学の一年生─ただの大学生であり、何も疚しいところは無い。しかしボサボサ頭のヒョロヒョロした眼鏡男子で、安物のグレーの長袖シャツにヨレヨレの黒いチノパン姿は、セレブな御子息・御息女が通う名門の学生にしては我ながらみすぼらしいと言わざるを得ない。もし警官に『貴様偽学生だな!』と問い詰められたら、『僕がやりました!』と観念する自信がある。 かくして建物にも人にも気圧されて、僕は警察署前の歩道で固まっていたのだ。(他に出入りする人がいればどさくさ紛れに入っちゃうんだけどな……) 僕は辺りを見回すが、正午前のこの時間、付近はエアポケットに入ったかの様に人通りが途切れている。もうここで何分こうしているか…。 その時、立番の警官がこちらをチラッと見た。(うっ!)慌てて僕は近くにあった掲示板を眺めているふりをする。 男女の警察官が止まれとばかりにこちらに掌を突き出した写真に、『ストップ、詐欺!』と大きくデザインされたB4サイズのポスターが貼ってある。警官役のモデルの厳しい表情に加え、背景に激しい稲妻がビカビカと走る気合いの入ったデザインだ。そしてその横の文字だけのもう一枚のポスターに、近

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  • ある日突然にどーる   第一話 亜人の靴

    ……ゆるゆると目を開ければ、辺りは昏くて白い。 夜空に綺麗な満月が浮かんでいる。 頭上で重なり合う枝葉をサワサワと風が鳴らし、隙間から月光が零れ落ちてくる。 あたしはその大きな樹の根元に仰向けに寝転がっていた。草の匂いがする。 (草原…?) その叢は横たわるあたしの体をスッポリ隠す程に深く、葉の一枚一枚も何だか大きい。一体ここはどこだろう?あたしの生活圏内にこんなザ・自然な場所、あったっけ?どこか山奥にでも来たのだったか…… 「…って、え?てか、今までどこにいたんだっけ…? 何してたんだっけ……あ?え…? ……あたし、誰?」 全身から力が抜ける。ゾワゾワと嫌なモノが背中から這い上がってきて、寒気と吐き気で体が震え出す。 (分からない…記憶喪失っ…?) ガチガチと鳴り出した歯を止めようと、あたしは頬に両手を当てた。 ペコン。 予想していなかった音がして、頬に手を当てたまま固まる。爪が頬骨に当たったのか…?いや、そこまで硬い感触ではない。しかし覚えている皮膚の弾力とはまるで違う。あたしは両手を頬から離して目の前に掲げた。 月明かりに白く光る細い指も掌も透き通る様に綺麗…けれど、明らかに不自然だった。ツルンとしてシワが全く無いのだ。指紋すら無い。指の関節はあるが、まるで切れ込みが入ったかの様にくっきりしている。そして手首の関節は── あたしは悲鳴を上げた。 ……………………………………… よく晴れて、日差しの眩しい朝である。 僕─間嶋久作は眠い目を擦りながら、ヨロヨロと急坂の歩道を上がっていた。 ブロオオォ…… すぐ脇の車道をバスが追い抜いていく。車内には僕と同年代の男女が多く乗っていた。見送って溜息をつく。 東京都南西部・世田谷区の麗青。この辺りは地域全体が丘になっており、駅前を過ぎるとすぐに上り坂になる。庭付きの高級住宅ばかりが並んでいて、土地が物理的にも価格的にも高い。都心から離れて落ち着いた世田谷区内でも、特に有名なセレブの街である。 僕は日差しを避けて豪邸の塀沿い、庭の樹々が枝を張り出している木陰をトボトボと歩く。垂れ下がった葉っぱが不意に頭を掠めて、ビクッと首を竦めるのが我ながら情けない。 季節は本

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